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今を生きる

虹
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僧侶様の法話

執筆者:瑞鳳天祥

今日は、今を生きると云う事をテーマにお話して見ましょう

さて今と云う事辞書で牽いて見ると現在の時と説明されて居ますが

基本的には、心の流れも刻の流れと等しく流れを持ちますが時として其の流れが滞る場合が御座います。

其れは、心の中に憎しみや過去に執着して居る状態です。

要するに、「〇〇れば〇〇たら」と云う執着に始まり其れが元で「〇〇に成ったのは、あいつのせいだ」とか「〇〇の責任は、自分のせいだ」等自分を責めたて軈て其の事が原因で疲れ果てる訳です。

確かに過去を振り返る事は、大切な事ですが憎んだり責める為にしては、為らないのです。

過去に執着する事は、心の流れを止め淀ませ幸せを遠ざけます。

要するに心の流れを止める事は、本来の自分を見失い決して良い結果は、もたらさないのです。

即ち今を生きるとは、今と云う刻の流れ心の流れを観じその流れに従い執着しない事が肝要なのです。

云う為れば今を大切に生きるからこそ未来も明るく展望を持てる訳ですね

少し話は、ずれますが今が憂き目の場合で有っても心の流れを観ながら進む事で学ぶべき事やその解決への糸口が見えて来ますし心の目で観る事で為すべき流れが見えて来ます。

更には、心の持ち方一つで全ては、変わるのですよ

即ち憂き目も幸せも心一つで変わって来ますね

一つの例として本題の前に法話で用いられるお話から破地獄偈等を通して心の持ち方に依る違いをお話しましょう

【破地獄偈】とは、よく盂蘭盆に於いて用いられる偈文ですが内容は、以下の通りです。

若人欲了知  三世一切佛
応観法界性  一切唯心造
〔和訓〕
若し人 三世一切の仏を了知せんと欲するならば応に法界の性は一切唯心が造るものならんと観ずべし

〔大意〕若しも人が三世の一切の仏を知りつくしたいと思うなら応に是の森羅万象の全ては心が造ると観察すべきである

と御座います通り全ては、心が造り出した現象と諭して居りまして更に其の心が造り出す違いと原因とは、即ち甲と乙の同一の間取りの部屋が有ったと致しましょう

其の部屋に二人ずつお腹を空かせた人が居たとします
其の人達に対して料理が用意されて居ますが

食事の決まりとして食事の為に長さ三尺の箸で食事をしなければ為らないとします。

片方二人は、其の箸を用い自分の口へと運ぼうと苦戦し食材から食器に至る迄散乱し一口も口に出来ませんがが片方の人達は、其の箸で相手の口へと運び食事をし心ゆく迄食事を堪能しました。

要するに相手の口へと互いに運ぶ部屋が極楽で其の逆が地獄の世界と為ります。

要するに同じ食事で有っても心一つで地獄にも極楽にも変わると謂う事で御座います。

さて此の事を元に本題へと移りますが

先日、心の持ち方一つで世界が変わるとは、己の我見で物事を見て居ると全てが歪み執着し憂き目ばかりの毎日と為りますし情報が氾濫する現代に於て徒に労する結果と為ります。

しかし執着を離れ本質を観ると全ての流れを知り自分の為すべき道が見えて来ます。

即ち、憂き目の刻こそ本質を見極め有るべき姿を知り又心の本質との対話の時ですし又我見を離れ正見へと変わる刻なのです。

人は、縁と行いに依って変わります。

又、心一つ即ち「れば、たら」では、無く今と云う刹那の流れに於て自分が出来て何を為すべきかそして其の事柄に対して本質に迫る情報かをきちんと見極め無ければいけませんね

自分を中心として考え行動すれば地獄の様な世界に変わり他を受け入れ執着しない世界が極楽で有りますし何より幸せへの道を示してくれます。

更に関連付けてお話致しますと最近は、パワースポット等と申しまして寺社仏閣へ参詣される方もおいでですが其処へ参詣しただけとか其の寺社でお願いをしたからと言って御利益が戴ける訳では、無いのは、無論の事で御座いまして更には、お願いが叶わないと不平不満を申して蝙蝠の如く次々へと渡り歩く方も少なからず居られますし場合に因っては、「神も佛も無い」と暴言に出られる方も居られます。

以前に祈願に付いてお話致しましたが此のパワースポットに関しても其の場の力や御利益を戴く為には、一つの法則と言える内容が御座います。

其の法則とは、先の【心の在り方】と【祈願】に有ります。

先ず心の在り方と申しますのは、祈願にも通じる事ですが【我利我利亡者の心】では、到底余慶には、与れません

仏教に関わらず神佛の信仰に於いて必要な事は、畏敬と礼儀と成りますが仏教では、【利他の心】も重要視されます。

謂わば仏教に於ける神佛の慈悲は、【利他を先として】と申します通り例え自身が彼岸へ渡れる徳が有っても其の徳を衆生に廻し先に衆生を救い後々の最後に自身の成仏を誓願と致します。

故に神佛に「お願い致します」と礼儀を尽くしてお願いしても其の本質は、自身の為だけですし日々の心の在り方や行いは、御存知ですから【我利我利】の心では、抑の教えに叛く事ですから其の心に対して問われても徳や願意成就は、難しいものですし祖霊が願意の言霊を打ち消します。

更に【祈願】に付いてですが以前にお話致しましたが祈願とは、祈りとお願いで御座いますから謂わば神佛の教えに従い【利他を先】とした願い方が願意成就や神佛の徳を戴ける法則に御座いまして【回向】の講釈でもお話致して居りますが祈りの基本は、自身の徳を他に先に回し余慶に与る事ですし其の余慶の徳に依って願意成就を願う故に【祈願】と申します。

故に祈りの無い願いは、【お願い】に過ぎず況しては、【我利我利】の願いでは、如何に願うとも叶わないので御座います。

更にもう一つ付け加えるならば其の祈願をする寺社に祭祀されて居ります神佛との御縁の強さも有ります。
祈願寺の行者曰く施主様の願意を届ける秘訣は、【神佛との信頼と願い縋り拝み倒す事】と申します。

謂わば神佛の教えに従い行に励み縋り拝み続ける事で強い御縁を繋ぎ願意が届き易く致す訳で御座いますから自身で祈願するにしても其れに準じた行いが肝要で一見だけでは、顔見せ程度ですから縁も繋がりも薄い訳ですから足しげく通い御縁を繋ぐ方が良いと謂う結論と成ります。

少々下世話な例えと成りますが昔の吉原に於ける太夫は、初回は、【顔見せ】と申しまして一言も話さず二度三度、五度六度と通い詰めて初めて馴染みの客として御酌や話をする事が出来ますが此れは、如何成る御大尽で有っても殿様で有っても多額の金子を積んでも同じ対応で御座いまして有る意味平等に御座います。
言い替えれば神佛の御縁も然りと成ります。
謂う成れば行者の言葉の通り神佛は、縋り拝み倒す訳で御座いますから一見様より足しげく通う信徒様の方が御縁は、深い訳ですし願いも通り易く成ります。

此れは、誰で有っても等しく有りますから一見様で多大な供物等を納めるよりも足しげく通い出来る範囲で御供物等を納められる方の方が祈願は、届き易く成ります。

謂わば【貧者の一灯】の物語の通り信仰や祈願は、心で有りますから其の心や祈りを蔑ろにして徳には、与れ無いのです。

では、如何にして【お願い】を【祈願】に変えるかと申しますと先ずは、其の寺社に祭祀されて居ります神佛をよく知る事です。

謂わば寺社に参拝する事は、其処へ祭祀されて居ります神佛を拝する訳ですから知った上で参拝するのと知らずに参拝するのでは、気持ち自体も変わりますし漠然と拝するよりも心構えも違います。

二つ目は、日常含めての事ですが【感謝】に有ります。

謂わば世の常は、縁の繋がりで御座いますから日々の御加護と神佛との繋がり又人との繋がりに於いて自身が生かされ又様々な恩恵を受けて居ると謂う自覚が必要です。

即ち幾ら自身に才覚が有っても御縁が無ければ生かせない訳ですし又、一人だけでは、生きられ無い存在ですから御縁と申します【仕合わせ】を自覚感謝する事で【幸せ】を享受出来るのです。

ですから一日一回は、相手を褒め、自分も褒めてあげて下さい

そして一日十回は、微笑み笑って見ましょう

その習慣を作る事で貴方の気持ちは、豊かに幸多きものと成るはずですし【仕合わせ】から【幸せ】に変化するもので御座います。

天祥 九拝

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法話

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