これから書く「貧困」とは、生活上の貧困ではなく、心の貧困にて誤解の無いように願います。
聖天信仰の心得十二条にも「本当の信仰とは、お聖天様にひたすらおすがりして、一切をあげておまかせすることである。」「どんな無理なお願いをしてもよいし、その達成に努力精進することは言うまでもないが、あとの結果は聖天様の思召におまかせするがよい。」と書き記されてある通り、願うは自由であるものの、その時期や結果は聖天様にお任せするのが聖天信仰です。
しかし、聖天信仰の心得十二条にある「ご利益を少しも疑わず」という意に反し、願う段階から聖天様のご利益を信じきれずにいる者、または自分の思う時期に願いが叶わないと落胆する者、これら全て心が貧困であると言えます。
心の貧困は、生活上の貧困とは異なり、自分の意識が作り出した貧困であり、意識の持ちようで何時でも直ぐに脱出できる貧困です。
聖天様を一神不乱に信仰し、一心不乱に願えば、必ずや何らかのご利益とお導きを授かります。最初に授かるご利益お導きは、その願う者にとっては、小さなご利益お導きかもしれなせんが、そのご利益お導きに気が付いて、聖天様に喜び感謝御礼し、その通りに自らが行動をしてこそ、また次のご利益お導きを授かることが出来るのです。
仮にアイスクリームが食べたい子供が居たと例えた時に、いきなりアイスクリームを子供の目の前に出してくれる場合も御座いますが、先ずはアイスクリームが販売されている場所への地図を授けて下さる場合も御座います。その地図に喜び感謝御礼することで、また次のご利益お導きとして、自然と肩こりの親が「肩を叩いておくれ」といい、そのご褒美にアイスクリームが買えるだけの金銭を授けて下さる場合も御座います。
この世には何事にも順序というものがあるように、聖天様のご利益お導きにも順序というものがあると言えます。つまり願い叶うにも順序があるのです。
しかし心が貧困になれば、せっかく聖天様が授けて下さった有り難いご利益お導きにも気が付きません。アイスクリームが販売されている地図に気が付かなければ、肩こりの親から「肩を叩いておくれ」と言われて金銭を授かっても買いに行けません。
聖天様に願えば必ずや何らかのご利益お導きを授かります。その有り難いご利益お導きを逃さぬよう、常にアンテナを張り気が付く建設的な裕福な心であることが大切だと言えます。
病は気からという言葉が御座いますが、諸願成就も気からと言えのではないかと存じます。
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