玄関を開けても、まだ会議室にいませんか
「敷居(しきい)を踏むな」。実家や祖父母の家で、そう叱られたことのある方もいらっしゃるでしょう。敷居とは、部屋と部屋、家の内と外を分ける、あの低い横木のことです。踏まずに、足を上げて越える。理由も教わらないまま、ただそうしろと言われた所作です。
この小さな作法が、今のあなたにとって、思いがけない助けになります。
夕食の味がしない、子どもの話が耳を通り抜ける
帰宅して、靴を脱ぎます。「ただいま」と言ったかどうか、自分でも覚えていません。テーブルに着いて、箸を持って、食べています。けれど味がしません。家族が話しかけてくれているのに、返事が上滑りする。「うん」「そうだね」「あとで」。
頭の中では、まだ夕方の打ち合わせが続いています。言い返せなかった一言を何度も再生し、明日の段取りを組み直し、送っていないメールの文面を考えている。スマホの通知が光ると、心臓が一度、跳ねます。
体は家にいます。心は、まだ会社の廊下に立っています。あなたはそのことに気づいていて、それが家族に申し訳なくて、さらに疲れているのではないでしょうか。
敷居は、家の骨であり、内と外の境目でした
敷居は構造上、家を支える大事な木です。踏めば傷み、建具が歪みます。だから踏まない。それはまず、家を長持ちさせるための現実的な理由でした。
同時に、昔の人は敷居を「境目」として扱いました。ここから内側は、外の理(ことわり)が及ばない場所である。だから足を上げて越える。またぐという動作そのものが、「入ります」「ここからは違う場所です」という小さな儀式だったのです。
心は言葉では切り替わらず、形で切り替わる
私たちはつい、気持ちで解決しようとします。「もう考えないようにしよう」「家では仕事を忘れよう」。けれど、心は命令で止まりません。考えるのをやめようとすると、かえって鮮明になります。
心を切り替えるのは、言葉ではなく形です。手が動く、足が上がる、声が出る。体がひとつ動作をすると、心は遅れてついてきます。順番はいつも、形が先なのです。
敷居をまたぐという所作は、その順番を知っていた人たちが残してくれた道具なのだと思います。
聖天様のお言葉
「そなた、家の内にまで戦(いくさ)を持ち込むでない。門をまたぐその足に、心も乗せて運べばよい。降ろす場所を持たぬ者は、どこにおっても戦のうちじゃ」
休む場所がないのではなく、荷を降ろす場所を決めていないだけかもしれません。
今日からできる小さな一歩
玄関で、足を上げて越える。そして声に出して「ただいま」
今日の帰り、玄関の段差でも、部屋の境目でもかまいません。またぐときに、意識して足を上げてください。そして一呼吸おいて、声に出して「ただいま」と言います。誰もいない家でも言ってください。声は自分にも届きます。
余裕があれば、靴を揃えます。つま先を外へ向けて、そっと。この三つだけです。足を上げる、声を出す、靴を揃える。十秒ほどの所作です。
これは気分の問題ではなく、合図の問題です。毎日同じ形を繰り返すと、体が「ここから先は内側だ」と覚えます。覚えた体は、あなたの心を自動的に連れ戻してくれるようになります。
もし仕事を持ち帰らざるを得ない日は、開く場所を先に決めてください。食卓ではなく、別の一角で。終わったら道具を閉じて、もう一度「ただいま」と言い直します。閉じるという形も、また合図になります。
結びに
家に仕事を持ち帰ってしまうのは、あなたが手を抜けない人だからです。責任を人に押しつけられない人だからです。その真面目さのおかげで、職場の誰かが助かっています。そこは、どうか誇ってください。
ただ、あなたにも降ろす場所が要ります。境目をまたぐ足を、少しだけ高く上げる。そこから内側は、あなたが評価されない場所です。誰にも採点されずに、ただ座っていていい場所です。
今日の玄関で、一度だけ、足を上げてみてください。あなたの帰りを、内側は待っています。
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