僧侶様の法話
さて、本日は、【葛藤】と謂う言葉に付いて講釈して見ましょう
葛藤とは、よくもう一人の自分や他人との意見対立、若しくは、心や頭の中での相反する選択肢の迷い等を表す言葉で文字の如く「葛」と「藤」が立ち木に絡まりまとわりつく樣を現す言葉と成ります。
元々は、佛典の一節から生まれた言葉と為りまして其の佛典とは、【出曜経】と【法句経】の一節に御座いますが
出曜経では、【葛藤が樹木にまといつき、樹を枯らす様に「愛綱→愛欲の綱」に堕する者は、必ず正道に敗れ究竟に至らず】と説かれ
法句経では、【愛結(煩悩)は葛藤の如し】と説かれて居ります様に佛教では、正道(正しい道若しくは、悟りへの道《出世法》)を妨げる煩悩を《葛藤》に譬えて表現致して居ります。
即ち「葛」と「藤」の蔓が樹木にまとわり付き枯れさせる樣に人が愛欲や欲望に溺れてしまうと其の蔓で樹木が枯れるが如くに自滅への道を歩むとされます。
則ち愛欲や欲望は、際限無く湧き起こるものですが其の蔓に囚われる事無く【足りる事】を知るのが肝要と説きます。
謂わば強制的に押さえ付けるのでは、無く程々に楽しみつつも何れは、其の執着からも離れる事が肝要で有ると説きます。
人間と申しますか心と謂う存在は、常に移ろい易く又、欲に対しては、大変忠実で御座いますから禁欲的な事をしても必ず歪みを生み更には、其の肥大した欲の反動で有らぬ災いをもたらします。
故に御釈迦樣は、中道と申します象を以て欲を制し正道を以て彼岸へ至る事を勧められた訳で御座います。
又、禅の世界の葛藤とは、難解な言葉や知識のみに囚われ何時までも論議が終らない事を意味し其の議論を断ち切る事を【葛藤断句】と申します。
禅の世界では、謂わば有りの儘を受け入れる事が悟りへの道と成る訳で御座いますから枝葉の知識や論理は、執着の一因と成る為其の知識すら捨て去る様説かれて居り御釈迦樣が申された通り大悟を得て彼岸へ到る其の刻には、教えや悟りすら離れよと説きます。
世の中は、常に無常で理不尽なものですし心も同様に自由を求めるも自由を得れば不安から不自由を求める大変、我が儘な存在に御座います。謂わば葛藤に至るも執着に囚われるも根本は、心に御座いまして其の根幹には、常に不安が御座います。
其の不安を除き葛藤より離れる為には、やはり其の為の【智恵】が必要で御座います。
イソップ童話の「狐と葡萄」のお話では、有りませんが葛藤から離れる為に其の事柄を断念し不平不満を募らせるのは、本末転倒で御座います。
謂わば葛藤に野放図に囚われる事無く適度に接しつつも心は、智恵を以て偏る事無く自由に保ちたいもので御座います。
天祥 九拝
執筆者:瑞鳳天祥
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