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我慢と辛抱

格言
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僧侶様の法話

さて、本日は、此の格言を基にお話致したいと思います。

【他者は、あなたの期待を満たすために生きているのではない…】

心理学者アドラーの言葉ですが有る意味、的を得て捉え方を誤ると危険な言葉ですね…。

最近、名言格言の書籍や様々な宗教思想等の書籍が多数出て居ますが其の一冊に記されて居りました言葉で御座います。

確かに人は、個で有りますから其の心は、推し量る事は、出来ても真意は、本人にしか解りませんね…。

謂わば恋愛にしても人間関係にしても個と個の関係や距離感は、中々難しいもので譬、身内で有っても難しいものですから他人と成れば尚更の事で御座います。
故に人間関係とは、時として見返りを期待したり期待外れの結果で有ったり其の時の結果に於いて心の動きは、目まぐるしく変わります。

しかし上記の言葉を借りれば確かに他人は、他人で有りますから結果が望まない事でも当たり前な事なのですが…。

だからと言って物事を自分中心で考えるのは、大変危険な事と成ります。

一つは、世の中は、【縁】と謂う存在で繋がって居り更に因果と申します絶対の法則が御座いますから自身の行いや心の動きは、因と成り様々な影響を与える象と成ります。

故に自分中心の考えや行いは、刻に従い自身へと結果が顕れます。

更に他者から何かをして戴くのは、相手の行為が必ずしも見返りや期待が有ってするのでは、無く慈悲心(抜苦楽与)の心からの行為の場合も有る訳ですから求めた結果で無くとも素直に歓び其の縁に感謝すべき事柄です。

仏教では、布施と言う言葉で表現されますが布施とは、見返りを求めず施す事で金銭に限らず他者の為に行動する事を布施と致します。

逆に見返りを求めたり自分を優先する事は、愚か者と説きます。

即ち先の言葉の仏教的解釈としては、見返りを求めたり期待するから辛い訳で見返りを求めず他者の為に何かをする事に意味が有り故に其の縁と行いが廻り合い余慶に預かれるのだと説きます。

即ち相手を大切に思うが故に愛語を語り、慈眼の眼差しを放ち布施をする

現代社会は、偏った個人主義や啓発本、情報が氾濫して居ますが何より幸せに成る近道は、先ずは感謝の気持ちを忘れ無い事と見返りを求めない行動に基本が隠されて居るのです。

更に聖天樣に於いては、願意を叶えるに当たり其の本人が其の余慶に値するか問われる時が御座います。

此は、聖天樣に限らず何かしらの目標を持ち行動したり日々の生活に於いても間々に有る事柄では、有りますが所謂、壁と申しますか苦労が御座います。

此の苦労に対しての心構えとしては、重要な事は、【我慢】では、無く【辛抱】が肝要で御座います。

一般的には、我慢も辛抱も同じ意味に捉えられますが我慢と辛抱は、全く別の意味を持ちます。

幾度かお話致して居ります内容ですが我慢とは、我心、慢心が伴って居り其の心から増長慢に対して諌める言葉で御座いまして謂わば「たられば」や「環境が…」「相手が変われば」等の責任転嫁の心や自身を省みない心で御座いますから先ず以て同じ苦労でも我慢では、何ら学びも無ければ結果も其なりに成り更成る不平不満を募らせます。

辛抱とは、忍辱で御座いますがもう一つ解りやすく意味を加える【辛】の文字は、【幸】の一文字が欠けた状態で御座いまして謂わば辛い状況でも閂(心棒→辛抱)を加える事で幸いに変わります。

謂う為れば何事も心棒(成し遂げる強い意思)と辛抱が有って初めて成し遂げる事が出来ます。

最近は、物も情報も食に於いても有り余る程に恵まれ些細な苦労からも逃げる傾向が御座いまして其の割に求める物は、多く御座います。

謂わば、同じ労で有っても我慢はしても辛抱出来ない人が増えて居るのが実状で御座いまして耳にする内容は、多くが不平不満で御座いますし多くの内容が「他者が変われば」「自身の環境が変われば」の責任転嫁の内容で御座います。

不平不満は、身口意を穢します。

其の様な自ら穢す事では、先ず以て功徳も良い御縁も戴け無い訳ですから願意が叶わずとも仕方の無い事で御座います。

では、如何に辛抱するかで御座いますが此は、簡単な事で自身が変われば良い訳で意識を変え行動を変え言葉を変えるだけで済みます。

則ち意識とは、正しい知識、智恵を身に付け其の智恵に従い行動を変え愛語を以て言霊を発する…。

一見、難しく見えますが他者や環境を変える事より簡単な事ですし自身のペースで出来る事ですから焦る必要も御座いません

自身を変えるのは、他者では、無く自身で御座いますから先ず出来る事から始める事が肝要で御座います。
長々とお話致して居りますが以前お話した通り人間の潜在意識は、共通化されて居ります。

謂わば他者は、自身の鏡で御座いまして他者からの意見具申や自身が不快に思う事柄は、自身に対する戒めでも御座います。

故に不快に思う言葉を受けたりされた事に腹を立てるのでは、無く自身の事として省みる事が肝要ですし其の事を変えるだけで自然と環境も他者も変わり更には、良い御縁も戴け幸も願意成就も為される訳で御座います。

天祥 九拝

執筆者:瑞鳳天祥

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法話

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