執筆者:瑞鳳天祥
さて時代の流れは、斯くの如く最近の世の中は、些か騒々しく不安定さが見え隠れして居りますがこの【不安定】を仏教では「ふあんじょう」と申します。
今回は、この不安定について講釈して見ましょう…。
一般的には、不安定=物事が安定せず危なっかしい様子を意味致します。
では、仏教語の不安定(ふあんじょう)は如何なる意味を持つのでしょうか。
仏教用語の辞書を検索致しますと【不安定=心が不安で動揺している事。】と書いて居ります。
仏教語の不安定は、心の動きの限定の言葉で御座いまして心が不安な状態を指して居ります。
抑「不安」自体が、心の問題を表した言葉で御座いまして其れは、現代の不安も仏教語の不安も同じで御座います。
但し、仏教用語での不安の場合、心の問題だけでなく、身体の不調も「不安」と言って居た樣で御座います。
つまり、心身共に調子が悪い状態、心か身体かどちらかの調子が悪い時、「不安」と言った訳で此れが現代語になると、心の状態がよくない場合のみを「不安」と謂うように成りました。
しかし「不安定」に成ると、仏教語は心の状態を表す言葉なのですが、現代語はバランスが悪いことを表す意味が増えて居ります。
「精神が不安定」等とも申しますから、心のバランスが悪い状態を表現する使い方は残って居ります。
因みに、仏教語には対義語で有ります「安定」という言葉は存在致しません。
安定の代わりと申しますか、安定を表す言葉として「安諦(あんたい)」と謂う言葉が御座います。
此れは、現代語の「安泰」とは意味が異なります。
「安諦」は、物事や筋道を諦め【明らかにして】を心が落ち着いて安らかなことを意味して居ります。
「安泰」は、国家や君主の身が危機を乗り越えて、無事である事を意味して居りますが読みは同じでも漢字と意味が異なります。
謂わば如何に正しくともやり過ぎは、煩し孤を生み禍を招くので御座います。
要するに行き過ぎは、偏りですから不安定と成る訳で安諦へ導くには、バランスが肝要で御座います。
其のバランスとは、所謂「中道」で是の中道の精神を理解する事が安諦(安泰)に通じる訳で自己の利のみでは、必ず歪みや争いを生む訳で過ぎたるは、及ばざる如しなのです。
即ち愚人の如く利を他者に先とせば我、利省かれぬべしと我利我利亡者と成っては、結局、損をし他者に利を与けた人が後々に於いて多くの徳を得る訳で御座います。
天祥 九拝
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