「歓喜天」という御名に込められた意味
聖天様(しょうてんさま)の正式なお名前を、あなたはご存知でしょうか。大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)――「歓喜」、つまり喜びをその御名に持つ神様です。数ある仏教の神様の中でも、喜びそのものを神格とされたお方は、そう多くはありません。私たち聖夫婦は、この御名にこそ聖天様の慈愛の深さが表れていると感じています。
なぜ喜びが御名になったのでしょうか。それは聖天様が、人の心に喜びを取り戻させてくださる神様だからだと伝えられています。悲しみを消すのではなく、その奥に眠っている喜びの種を、そっと思い出させてくださる。今日、笑えなかったあなたにこそ、知っていただきたいお名前なのです。
喜びは「探すもの」ではなく「思い出すもの」
つらい日が続くと、私たちはつい「もっと頑張って幸せを探さなければ」と自分を追い立ててしまいます。けれども聖天様の教えは、少し違う方向を指し示しています。喜びとは、どこか遠くから探してくるものではなく、もともと自分の中にあったものを思い出すこと。そう説かれているのです。
かつて私たち聖夫婦のもとに、こんなご相談が寄せられました。ある女性(お名前は伏せます)は、「最近まったく笑えない、自分は喜びを感じる力を失ったのでは」と沈んでおられました。けれど話を伺ううち、幼い頃に縁側で食べた冷えたスイカの記憶を、ふとうれしそうに語られたのです。喜びの力は失われてはいませんでした。ただ、日々の疲れの下に隠れていただけだったのです。
笑えない日は、心が休息を求めている
喜びの神様である聖天様は、だからこそ「喜べない日のつらさ」も誰よりご存知です。無理に口角を上げること、明るく振る舞うこと――そうした頑張りを、聖天様は求めておられません。笑えない日は、心が「少し休ませてほしい」と告げている合図なのです。
聖天様はこのようなお言葉をくださいました。
「笑えぬ日を責めるでない。花とて、雨の日はうつむいて休む。うつむく姿もまた、生きておる証じゃ。」
雨の日にうつむく花を、私たちは咎めたりしません。それと同じように、笑えないあなた自身のことも、どうか責めないであげてください。
今日からできる、喜びを思い出す小さな所作
聖天様の教えに基づく、ささやかな実践をひとつお伝えします。夜、眠る前に「今日、少しでも心がゆるんだ瞬間」を一つだけ思い出してみてください。温かいお茶を一口飲んだとき。窓から入る夕方の風が涼しかったとき。ほんの些細な感覚で構いません。
大切なのは、大きな幸せを探さないことです。指先に触れた湯呑みの温もり、鼻先をかすめたお味噌汁の匂い――そうした小さな感覚こそが、あなたの中に眠る喜びの種に触れる呼び水になると言われています。一日一つ、その種に気づいてあげる。それだけで、心はゆっくりと本来の力を取り戻していくのです。
なお、気分の落ち込みが長く続いたり、日常生活に支障が出るほどおつらい場合は、信仰とあわせて専門の医療機関やカウンセリングにもご相談ください。信仰は、専門的なケアと並んで歩むものです。
喜びの神様が、あなたのそばに
聖天様の御名「歓喜天」は、あなたに喜びを強いる名前ではありません。喜べない日も含めて、あなたの心をまるごと受け止め、いつか喜びを思い出す日を静かに待ってくださっている――そういう慈愛の御名なのです。
今日笑えなかったのなら、それでいい。うつむいた花が、明日また陽を仰ぐように。あなたの奥に眠る喜びの種は、消えてなどいません。その種にそっと気づく夜を、今日から始めてみませんか。
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