聖天信仰する人の多くが、聖天様に何らかの願い事をしていると存じます。
その中でも、願い叶いやすい人と願い叶いにくい人がいます。
その差は何なのか。
それには功徳など様々な要素が関係しますので、一言で説明するのは不可能ですが、少なくとも聖天様との御縁の深さは、其れ相応に関係するかと存じます。
聖天様はどんな願いも叶えてくれる神様ですが、誰にでも叶えてくれる神様では御座いません。
聖天様は人を選ぶ神様であり、聖天様から御縁を授かれない人間は、いくら聖天信仰しても願い叶いません。
つまり、どんな願いも叶えてくれる神様から選ばれ、御縁を授かれる人間というのは、本当に幸せ者なのです。
今回は、その幸せをどれほど感じているか、聖天様から有り難くも授かった御縁に対し、どれほどの価値を感じているのか、どれほど大切に思っているのか、という話をしたいと思います。
どれほどの価値か?とは、どれほど大切か?という意味です。
ある経典に「密かに以(おもんみ)れば、億々生死(おくおくしょうじ)の内、受け難きは人身。劫々流転(ごうこうるてん)の際にも、遇い難きは佛教なり。偶々(たまたま)受け難き人界の生を受け、幸いに遇い難き聖天の法に遇う。奇縁の至り感涙抑え難し」という教えが御座います。
私ら聖夫婦が大好きな教えは沢山御座いますが、この有り難い教えも、私ら聖夫婦が大好きな教えに御座います。
今回この中の「幸いに遇い難き聖天の法に遇う。奇縁の至り感涙抑え難し」という教えに注目し、お話を進めたいと思います。
この「幸いに遇い難き聖天の法に遇う。奇縁の至り感涙抑え難し。」という教えの中にある法とは、仏教における法を意味しますが、ある意味で聖天様との御縁とも言えます。
ほとんどの人間が出会うことの出来ない聖天様と出会い、その聖天様から御縁まで授かること、まさに奇跡であり、最大の幸せでありますが故に、その有り難さに涙を流すこと、自然のことに御座います。
皆さん、聖天様と出会い、聖天様から御縁を授かり、その有り難さに涙を流したことありますか?
私ら聖夫婦は何度もあります。
いまでも、聖天様から御縁を授かったこと思えば、有り難くて涙が出ます。
聖天様との御縁が深いか否か、それを知る方法は幾つかあると存じますが、その中の一つとして、聖天様と出会えたこと、聖天様から御縁を授かったこと、有り難く涙を流した人間は、聖天様との御縁が深いと言えましょう。
合掌
皆様からのコメントお待ちしております。