聖天信仰の心得十二条に「その達成に努力精進することは言うまでもないが」という御言葉が御座います。
これは誰でもない本人の努力精進を意味しています。
ここで言う努力とは「願い叶える為に心身を労してつとめること」を言います。
願い叶える為の努力は沢山あります。
商売繁盛なら、商売繁盛となる企画を必死に考え、商売繁盛となるよう必死に仕事する必要が御座いますし、恋愛成就や復縁成就なら、相手に好意を抱かせる相手好みの素敵な自分になる必要が御座います。
また、聖天様に願うなら、出来る限りの参拝や、お百度参りや、ご祈祷など、出来ることは少しでも早く、少しでも多く、願い叶うまで継続する必要が御座います。
これに少しでも苦痛を感じる人は、なかなか願い叶い難しと言えます。
何故か。
そもそも人間という生き物は、苦痛を感じることに喜びを感じませんし、長続きもしません。
喜び無く苦痛で努力すれば、何処か必ず怠る部分が出てきます。
しかし、多くの本人は怠っていることに気が付かないものです。
苦痛を感じることに最善を尽くすこと皆無と言えます。
しかし、その努力が喜びに感じたら、きっと最善を尽くすことが出来ます。
最善を尽くさぬより、最善を尽くした方が、願い叶いやすいこと、言うまでも御座いません。
よく「俺は努力している」「私は努力している」「俺は努力した」「私は努力した」という人が居ますが、このようなことを言う人に限って、どこか努力を怠っており、最善の努力が出来ていないこと、世の常と言えます。
同じ努力でも、苦痛を感じる努力と、喜びを感じ当たり前と感じる努力とでは、その努力の経緯や内容が異なりますし、努力の経緯や内容が異なれば、努力の結果も異なること必然で御座います。
話を先の商売繁盛と恋愛成就や復縁成就に戻します。
苦痛を感じながら商売繁盛を企画しても良い案は浮かびませんし、苦痛を感じながら仕事しても客や金銭は寄り付きません。
苦痛を感じながら恋愛成就や復縁成就の為に自分磨きしても決して輝きませんし、苦痛を感じながら恋愛成就や復縁成就の為に自分磨きしても相手に好意を抱かせることは出来ません。
喜びを感じながら当たり前と思い商売繁盛を企画するから良い案が浮かび、喜びを感じながら当たり前と思い仕事するから、客や金銭が寄ってくるのです。
喜びを感じながら当たり前と思い恋愛成就や復縁成就の為の自分磨きをするから輝くのであり、喜びを感じながら当たり前と思い恋愛成就や復縁成就の為の自分磨きをするから相手に好意を抱かせることが出来るのです。
願い叶える為の本人の努力精進に苦痛を感じず、喜びを感じ当たり前と思い行動できた時こそ、その先に願い叶う未来が待ち受けているのだと存じます。
合掌
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