僧侶様の法話
執筆者:瑞鳳天祥
皆樣日々御精進の事と存じます。
先日、聖パパ樣が【御祭参拝のお話】を為されて居りましたので付随した内容として【花火信仰】に付いて講釈して見たいと思います。
先日は、左義長で御座いまして各地の寺社でも左義長が賑賑しく行われまして次で節分や歳祝い(厄年)等の御祈祷や参拝等寺社に訪れる機会も多く御座います。
其の中で此の時期増える参拝者が、【花火信仰】の参拝者で御座いまして謂わば【祭参拝の延長】とも言える事で御座いますが謂わば【厄年だから】【方位が悪いから】【合格祈願等何かしらの願いが有るから】等の【困った時の神頼み】ですな…。
往々にして花火信仰の信者さんは、花火の如く【其の時だけ】熱心に参拝御祈祷は、致しますが喉元過ぎれば何とやら御礼参りをすれば良い方で中には、己の実力宜しく御礼参りすらせず知らん顔の方々も多々居られます。
謂わば【花火の様な短期集中的にの熱心な信者さん】に変身する訳で御座います。
些か余談と成りますが此の様な信仰形態に成った理由の一つには、現代の社会変化が有るかと思いますが某社会学者の方が現代人の行動の傾向に付いて次の様に述べて居ります。
「現代人は、インターネットの普及で様々情報がリアルタイムで手に入る環境に有り情報を手に入れたいときにすぐ手に入れられる生活を続けると、我慢せず結果を欲しがるようになる。SNSなどで新しい情報を得たり、即反応しないと損をしてしまうように感じてしまうのはないか」
要するに自身が望んだ事に対して即座に結果が欲しい其の為には、他は、関係無いと謂う思考から我を強め神佛に対しても同様の願い方をする訳です。
言い方を変えると現代社会に於いて【餓鬼】が増えたとも言える訳ですな…。
確かに神佛は、地獄で有れ餓鬼で有れ慈悲の手を述べて下さいますから一部には、其のおこぼれに与る人も居ますが大概は、洩れてしまいます。
其の様な人に限って【神も佛も無いや〇〇に行ったけど御利益無かった…】と文句を言い終いには、自身の行い等を神佛に問われた事に対して妄言や流言を流行りのSNS等で呟く訳ですな…。
お話を戻しますが神佛の御縁や信仰は、【倦まず、弛まず、縋る】事が基本で御座いまして【棚ぼた信仰】や【花火信仰】【見返り信仰】等では、神佛の御利益に似た魔や鬼神等の御利益は、有るかも知れませんが後の見返りの取り立ては、推して知るべし事柄で御座いまして其の心や行いに対して問い掛けは、有るかも知れませんが功徳には、与る事は、出来ません…。
信仰の心得は、以前にお話致して居りますので割愛致しますが基本的に神佛の功徳は、人間の浅はかな了見では、図れませんし御都合主義でも有りません
然し正しい信仰と日々の行い、願意に対しての努力を怠らない限り神佛は、見放す事無く等しく慈悲の手を述べて下さるのは、間違いの無い事実で御座います。
謂わば以前申し上げた通り【月影の至らぬ里は、無けれども其を望む心にぞ住む】の言葉の通り皆様の心一つで全ては、変わるので御座います。
天祥 九拝
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