執筆者:瑞鳳天祥
今日は、幸せの本質に付いてお話致して見たいと存じます。
さて幸せの本質は、結論から申し上げますと【心の満足感に比例する】事と成りますが其の根拠は、何処に有るのでしょうか?
一つ御質問致しますが幸福とは、何でしょうか?
金銭に恵まれる事でしょうか?
地位や名誉を得る事でしょうか?
其とも全てを兼ね備えた親や伴侶を持つ事でしょうか?
他にも樣々な願望や欲求は、有ると思いますがそれが満たされる事が本当の幸せでしょうか?
確かに人に依っては、其れが幸せと断言為される方も居られるかも知れませんがあくまで其れは、枝葉の事ですし決して揺るぎ無い安心(あんじん)には、繋がら無いので御座います。
以前にもお話しましたが世の中の道理は、変壊(へんね)と質礙(しつげ)の法則で刻の流れに従い変化し全く同じ経験は、不可能で御座います。
更に申し上げれば上記の内容に於いても盗難の害や不祥事、死別や別離等の不安が常に御座いますから心からの幸せとは、申せません
況して如何に物が溢れるとも欲しいものが得られ無い苦しみ「不求不得苦」は、四苦八苦の一つで御座いましてその悩みや苦しみは、常に頭をもたげ、喩え得ても失う不安に苦しむ結果と成りますし物や人に依存する事は、得られ無い場合には、相手を恨んだり得た人を僻んだり致しますから結局不幸の種と成るので御座います。
即ち欲しいと云う感情は、欲望と云う業が造り出した有る意味不幸の種で有り欲望の影と云う事と成ります。
謂わば欲望に囚われた人は、その影の造り出した魅惑の幻影に踊らされて居る訳ですしその影に縛られて居るのです。
須く幻は、泡沫の夢ですから覚めて終えば残るのは、虚しさだけなので御座います。
その状態で一瞬の幸せを感ても心からの幸せを感じる事は、難しいですね
では、如何にして幸せを見付けるかで御座いますが世界には、幸福度指数と申しますものが御座いまして先進国と言われる日本と後進国と言われるブータンと比較致しますが幸福度指数に関しては、ブータンの方が遥かに上位に有り日本は、かなり下の順位に御座います。
実際、物やインフラが整った日本よりブータンの方が幸福度が高い謂わば逆転現象にも近いものが有りますが先の幸福の本質を当て嵌めれば納得戴けるかと存じます。
確かに日本は、高度経済成長を経て経済大国には、成ったものの心に於いては、未だ貧困状態に有りますし又、先の見えない閉塞感が御座います。
其の理由の一つには、飽食、情報の氾濫や偏向報道等余りにも物や情報等が溢れ過ぎる事や教育に於いても心を育てるべく道徳観を教えず拝金主義、知識のみの教育や価値観(偏った平等主義、偏った合理主義等)を押し付け、様々な部分に於いて心に対しておざなりに成って来た事からの弊害で知識は、有っても其れを活かすべく工夫や智恵の無いマニュアルでしか動けない思考停止の状態に御座います。
其れでは、幸福の本質も見えなく成りますし心の聲や女神の囁きは、おろか其の歪みから心の病に陥るのです。
仏教の基本は、中道と知足常樂即ち有るものに満足し今(刹那)を大切にする事に御座います。
幸せを辞書で牽くと「幸せ」の他に「仕合わせ」と有りますが語源は、仕合わせと成ります。
意味としては、巡り合わせや機会を意味する事で時代劇で善く使われる「有難きしあわせ」は、「有難き仕合わせ」と成りその役目を頂いた縁に感謝する言葉に御座います。
即ち今、貴方の周りの出来事は、縁に依る仕合わせですから様々な出会いから学び智恵を得て心豊かに幸せを得る事が肝要で御座います。
須く幸せは、良い微笑みの中にと言われる様に人や物、命を大切にする人が人生を豊かにし更に心を満たし幸せを得ます。
大切にすると云う事は、その本質の尊さに気付き尊敬し感謝する事です。
大切にする心は、全てを豊かにして仕合わせから幸せへと導いてくれるので御座いますから日々の感謝と学びが肝要なので御座いまし物事には、必ず本質と道理が御座います。
道理を弁え本質を知らなければ如何に努力をしても結果は、其なりで御座います。故に先ずは、本質を知り道理を理解し実行する事が幸せへの第一歩で御座います。
しかし、人間とは、実に不自由なもので自分の中に有る善い部分や目の前に有る本当に良いものに気付かないものです。
故に自分を語る時に卑下したり大きく見せる為に着飾ったり何かと名誉や権力に固執致しますがしかし幾ら着飾り名誉や権力等で身を固めてもその人の本質が変わる訳でも無く唯、失う恐れに不安を抱くもので御座います。
要するに「持つが故の悩みや恐れ固執」で有りますし本来持って生まれた徳に(幸せ)に気付かない不幸に有ります。
法華經巻第四 五百弟子受記品を引用喩えにお話しますが
有る時裕福な親友の家に呼ばれた人が持て成しを受け酔い潰れた時の事その友人は、友が苦労と不自由を哀しみその襟元へ宝珠(宝)を縫い付け送り出しました。
当人は、其を知らず財を求め放浪し苦労を重ね悩み苦しむ時にその親友と再会致します。
親友は、その友の変わらない姿を見て次のように告げます。
「汝、何の為に苦労を重ねる?我昔汝が幸を願い其の衣の裏に宝珠を縫い付けたるに今尚、其の衣を纏いその事に気付かずに嘆き苦しむは、甚だ愚か也」
こうしてその事を気付いた友人は、其を元に財を成すのですが
この話から判るように自分の求める本当の幸せは、身近にそして目の前に有るので御座います。
しかし本来の自分を見失い他に幸福を求め固執し自ら苦しみを得る事は、誤りだと言う事なのです。
須く本質は、目の前に有るかと存じます。
しかし其を見えなくして居るのは、泡沫の夢に酔う自分自身なので御座います。
人の本当の価値は、地位や財産、学歴に左右されず
何を信じて如何に生き、何をしたかで決まるのです。
全て幸せや大切なものは、貴方の身近に貴方の中に眠って居ます。
しかし自分を忘れ酔うも人生ですし気付き育てるのも又人生で御座いますが其を決めるのは、貴方以外誰でも御座いません
故に自身が幸せの本質を学び道理を体得した上で本当の幸せとは、何かを自身に問う事も大切ですし
守、破、離の言葉の如く道理をマニュアルとしてだけでは、無く道理を学び工夫して更に其の事ですら離れる事、謂わば日々の生活に於いての工夫、生きる為の智恵が現代には、必要なので御座います。
道理を学ばすして成功は、無く工夫無くして発展は、無し更に本質を知らずして道理は、学べ無いので御座います。
故に先程より申し上げて居ります幸福の本質は、心を満たす事に有り其の幸せは、良き笑顔謂わば心からの笑顔にぞ訪れるので御座います。
天祥 九拝
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