読者投稿:瑞鳳天祥様
皆様日々御精進の事と存じます。
本日は、本題に入る前に保育園に通う檀家様の娘さんからの質問を掲載(原文のまま)して其の回答を元にお話し致します。
其れは、御法事の席での事ですが「ねえ、おとうさん」(愚僧は、独身です→本人は、和尚さんと呼んでる積もりですが・・・。)「如何しましたか?」「あのね、保育園の先生がこの前のお話しで仏様は、〔ののさま〕(今回は、阿弥陀様の事)の他にも一杯居るって言ってたけど、どうして一杯居るの?」
流石に子供は、純粋故に鋭い質問をして来ますね・・・・。
其の際は、其の子の通う保育園の先生を例えにお答え致したが確かに仏教は、多神教で御座いますから天部、明王、菩薩、如来に至るまで多くの仏様が居られます。
では、何故に此処までの仏様が存在するかと申しますと理由は、大きく二つ有ると愚僧は、お話し致します。
一つは、法華経の三界火宅の比喩を引用致しますが内容はと申しますとと有る長者の家に多数の子供が居りました。ある日長者が留守の際、火災が起き其の火の勢いは、物凄いものです。
帰った長者は、子供達に避難を呼びかけますが子供達は、遊びに夢中で其の言葉は、おろか火災にも気付いて居ません・・・・。
一計を考えた長者は、子供達に外より話掛けます。
「我が子供達、外に金銀財宝で出来た鹿の車、羊の車、牛の車が有るから外で遊びなさい・・・。」
子供達は、其の言葉に喜び外へ逃れ難を逃れますが、長者は、子供達に出て来た褒美に白象の車を与えます。
そうです、長者とは、仏様の事で子供達は、我々衆生です。
則ち火宅は、現世と成り多くの楽と苦しみが混在し死と謂う大火が日を追う毎に迫って居ますが様々な娯楽欲望等の玩具は、我々衆生を其の恐ろしさから目を逸らさせてます。
物語に出る鹿の車、羊の車、牛の車は、謂わば外へ逃れる為(涅槃に至る為)の方便ですが、言い換えれば各宗派の教えや仏様の存在にも繋がります。
宗派の教えは、一見違う様に見えますが根本は、一緒です。所謂、見解や方法論の違いで以前お話した登山道の違いと同義と成ります。謂わば登山道が違うと見える景色が違うだけで目指す頂上は、一緒です。
仏様の存在に関しては、浮世の人も十人十色、好き嫌いや憧れも違います。
仏様の共通の願いは、救世の願で御座いますし漏れなく救う事が本願です。
故に様々な教え、仏様が存在致しますしそれぞれに救い方も違いますし御役目や御利益も違います。
しかし望む本願や救いの根本は、一緒で有る事を再度申し上げます。
もう一つは、現世の教育方法を例えますが教育は、幼児教育から大学院迄の段階に応じた教育が為されて居ます。
仏様の教えも同様に捉えて戴くと解りますが無知な我々衆生にいきなり悟りの本質を説いても理解は、おろか其の意味すら解りません・・・。
故に段階に応じた教えが必要ですから多くの仏様が存在し、それぞれに御経等を通して教化し導いて下さいます。
例えるならば聖天様含め天部の仏様は、人間に一番近い存在の仏様ですから例えが不適切かも知れませんが保育園等の先生でしょうか・・・。
所謂、幼い子供達をあやし宥めて(願意成就)仏様の教えに導きますし菩薩は、高校、如来は、大学院の教授と例えると迚も身近な存在に感じるかと存じます。
お話しは、冒頭へと戻りますが其の娘さんには、以上の内容をかみ砕いてお話し致したところ戴いた言葉は、「ふ~んだから一杯なんだねだったら私も沢山の仏様に一杯、守って貰えるから一杯感謝しないとね・・・。」との事、いやはや素直な子供達から改めて教わった次第で御座います。
天祥 九拝
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