執筆者:瑞鳳天祥
今日は、空に付いて別の角度より講釈して見たいと存じます。
般若心経では、全ての本質とは、空と説かれますが空とは、何でしょうか?
端的には、空とは、自由な心の喩えで有りますし涅槃の喩えで御座います。
要するに何も無いと言う事では、無く全てに拘りの無い自由を意味致します。
即ち究極の心の自由とは、涅槃とも謂われ【涅槃→梵語では、ニルバーナと申しまして意味は、吹き消す、打ち消すと申します其処から煩悩の無い状態】と成り絶対の安楽、安心→悟り、彼岸の世界と成ります。
謂わば般若心経の最後の陀羅尼では、空の真理を体解して彼岸の境地に赴く人に対して成就あれと声援を送って居りますが其の境地に至る為には、どうするか?と言う疑問に陥るかと存じます。
其の答えは、空の一文字に至ります。
即ち全ての物事は、常に変化と生滅を繰り返しますが其の本質は、即ち空で有り有るけど無い無いけれど有る即ち現象の一つに過ぎないのです。
喩えるならば風そのものが見えなくとも木々を揺らし水面を波立たせるように目に見えなくても其の存在は、確かに御座いますし鏡に其の姿を映すが如く空の本質は、変わらず減りも増えも穢れも清浄も無く全て空だと言う事なのです。
ですから心の自由を得れば煩悩【悩みに煩う】必要は、無く為りますし有りの侭で物事を観る事が出来ます。
喩えるならば赤子の心が自由だと謂われるのは、有りの侭を有りの侭で認識して居る訳で其処には、理屈も名前も一切存在せず只、観ずるものが存在します。
只、歳を重ねるに連れて物事の名前や理屈の縛りが生まれ徐々に不自由が生まれます。
即ち人は、自由を求めつつも不自由を創る矛盾した存在で御座いまして世の中も一つの矛盾で成り立って居ると申し上げても過言では、無いかと存じます。
要するに山を山と認識するには、山と言う表現が必要で其が無ければ人は、山と認識致す事は、出来ません
即ち山と言う理屈の名の下の縛りを以て山を認識致します。
極端な事を言うと煩悩から離れる為には、理屈云々は、不要と言う事なのです。
存在するが故に存在する其が本質で有りますから難しい理論や理屈も表現も無用なので御座います。
即ち理屈や理論を並べ立てるが故に煩悩が生まれ執着や苦しみが生まれ不自由な境涯が生まれます。
愚僧も様々な理屈を捏ねて居ますが其が解ったからと言って偉い訳でも優れた訳でも無く只、徒然に語って居る訳で本来は、其の事からも離れる事が望ましく其が全てを離れ程好く付き合い軈て離れる事が肝要で御座いますし。
禅の教えが不立文字で御座いまして文字に残す事も執着の原因と捉える次第に御座います。
只、求めるのは、心の自由で有りますから一切から離れ認識しながらも拘りを無くす事が目的と為ります。
善く煩悩の有る間は、悟りは、無いと言いますが其は、誤りで有りますが正しくも有ります。
要するに煩悩や執着の原因と成る様々な現象は、世に命を有る限り如何にしても御座います煩悩が有る故に悟りへと目覚め悟りを得るが故に煩しい悩みから離れる事が出来ます。
謂わば煩悩と悟りは、密接且つ表裏一体の世界に御座います。
謂わば闇が有る故に光の存在に気付くので御座います。
然れど本質は、即ち一切是れ空で有るが故に拘る必要は、無く只、有るが侭に今と言う刹那を大切にする事が肝要なので御座います。
謂わば其処に生きる意味も理屈も不要なのです。
理屈や意味を求めては、先を心配し死を恐れます。
又、理屈や意味を求める事で比較が始まり苦しみの原因が生まれます。
要するに空を理解し刹那を生きる事が未来を創り喩え死すべき刻でも恐れも何も存在する事無く受け入れる事が出来ます。
要するに全てを否定も肯定をも離れる事が空の境涯で有りますから一切の自由を得た涅槃域に達する事が出来るので御座います。
即ち一切の現象は、心の認識ですから心を自由にする事で苦しみも悲しみも越える事が出来ます。
しかし世の中は、矛盾と苦しみに満ちた世界ですが其の中で有っても心の本質は、自由なのです。
何故ならば全ては、空で有り執着の対象では、無いのです。
心を解放すれば誰しも自由で有り煩悩が有る無しに関わらず悟りを得られます。
何故なら鏡に全てを映すが如く其の本質は、空で有り執着も不自由も己の心が創り出す現象の一つに過ぎないので御座います。
天祥 九拝
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