誰もが聞いたことあるであろう「親の死に目に会えない」という言葉があります。
これは様々な理由で「親の臨終の場に立ち会えない」という意味です。
そして何らかの理由で親の死に目に会えなかった人は「側にいてあげられなかった」と悔やむのです。
しかし心配は無用です。
仮に何らかの理由で親の死に目に会えなかった人でも、会えなかったと思っているのは生きる子供だけであり、他界した親は最後に最愛の子供と会ってから天国へ旅立っています。
いったいどういうこと?と思われるかもしれませんが、人間は息を引き取る前後に、魂だけが様々な場所へ瞬間移動します。
仮に子供が沖縄にいて親が北海道で息を引き取り死に目に会えなかったとしても、その息を引き取る前後に親は瞬間移動し沖縄にいる最愛の子供に会いに行くのです。
これは子供に限らず、その息を引き取る本人が、大切と思う会いたいと思う人のところに、例え何人であろうとも瞬間移動し会いに行くのです。
もしこのブログを見ている人の中で、親の死に目に会えなかったと悔やんでいる人がいたら、会えなかったと思っているのは自分だけで、親から会いに来てくれたから、親の死に目には会えたと理解して良いです。
前に私のところに来た人で、親の死に目に会えなかったと悔やんでいる人がいました。
私は依頼を受け親御様に通じ「◯◯に◯◯で会ったよ」というメッセージを子供に伝えました。
私は「◯◯に◯◯に居ましたよね?その時に親御様は会いに来られたと言っていますよ。だからもう安心して悔やまないで下さい」と伝えてあげました。
また別の人ですが、誰も居ない部屋で勝手にドアが開き、お香の香りがした瞬間に電話が鳴り、大切な人が亡くなったことを知らされたという人もいます。
親の死に目に会えなかった時の悔やみは「自分の寂しさ」ということもあるでしょうが、その多くが「最後に側にいてあげられなかった。会ってあげられなかった」という親のためを思う気持ちから出る悔やみだと思います。
しかし何度も言う通り、親から会いに来てくれていますので、最後に会ってあげることが出来ているのです。
どうか安心して下さい。
最後に申し上げますが、これは親に限らずです。
大切な友人である場合も御座いますし、大切な恋人であったり、大切な恩師であったり。
現世の修行を終える人は、息を引き取る前後に、会いたいと思う大切な人に会いに行かれます。
だから決して悔やまないで下さい。
悔やんでも天国の親御様は喜ばれません。
それよりもしっかりと前を向いて生き、しっかりと供養してあげた方が喜ばれます。
今回のブログは以上です。
聖天様ブログの読者様におかれましては日頃より「いいね・コメント」など応援して下さり心から感謝と御礼を申し上げますと共に今後とも変わらぬ良き御縁を何卒宜しくお願い致します。
聖夫婦
合掌
皆様からのコメントお待ちしております。
親から会いに来てくれるなんてとても親の愛を感じます。
もし自分が死に目に会えなくても後悔しないようもっと親を大切にします。
良いお話ありがとうございました。
コメント有難う御座います。
ぜひ大切にされてください。
合掌