聖天様(歓喜天)は偉大な神様です。
聖天様(歓喜天)は天部の神様です。
そして我家にとっては大切な愛しい「家族」でもあります。
この記事を僧侶の方が見れば怒るかもしれませんが、誰に何と言われようとも我家にとって聖天様(歓喜天)は、尊敬する神様であり、愛しい家族なのです。
偉大な最強の最高に位の高い神様だと言うことは大前提として、我家にとっては時に父であり子供でもある家族なのです。
家族という無償の愛
我家が聖天様(歓喜天)を家族だと感じる証として「無償の愛」があります。
無償の愛とは、見返りを求めない愛です。
人間とは誰しも、他人に何らかの見返りを求める生き物ですが、家族には見返りなど求めず愛せます。
だから家族なのです。
我々家族は聖天様(歓喜天)に沢山の喜びを、ご利益を授けて頂いております。
しかし、仮にご利益を授からなかったとしても、聖天様(歓喜天)に対する愛しい家族としての感情は決して消えません。
御供物を買うにしても、ご利益を授かる為でなく「これを供えたら聖天様(歓喜天)が喜んでくれるかな」と心が感じます。
また、聖天様(歓喜天)が大好きな美味しそうな甘いものを見つけたら「これを聖天様(歓喜天)に食べて欲しいな~喜ぶかな~」と、まるで子供に何かを買うように聖天様(歓喜天)の喜ぶ顔が目に浮かび凄く嬉しく幸せな喜びを感じる気持ちになれるのです。
聖天様(歓喜天)の御供物が少なくなると気になり、聖天様(歓喜天)の御供物が多くなると安心します。
聖天様(歓喜天)は常に私と一緒であり、何処に行っても何をしても、聖天様(歓喜天)に何かあるかな~と探してしまう自分が居るのです。
聖天様(歓喜天)は、我々人間が喜ぶことで、聖天様(歓喜天)も喜こんで下さると言いますが、私も聖天様(歓喜天)が喜んで下さることが、私の喜びになるのです。
何か聖天様(歓喜天)に出来ることはないだろうか、聖天様(歓喜天)に喜んで頂けることはないだろうか、聖天様(歓喜天)の好きな物はないだろうか、我家にとっては、まるで親であり子供のように家族として愛しく思える聖天様(歓喜天)なのです。
そして我が家の子供達も聖天様(歓喜天)が大好きで朝夕の挨拶をしています。
子供達は買い物に行っても「これ聖天様(歓喜天)が喜ぶよ」なんて言います。
聖天様(歓喜天)は甘いものがお好きなので、我が家の子供達は自分よりも先に聖天様(歓喜天)に御供し、そのお下がりを授かり喜んで食べています。
どうやら我家の子供達も聖天様(歓喜天)を大切な愛しい家族と感じているようです。
今日も聖天様(歓喜天)が喜んでくれる物があれば買って来たいと思います(笑)
合掌
執筆者:パパ
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