理不尽な一言を、家まで連れて帰っていませんか
玄関先に置かれた小さな白い山。盛り塩(もりじお)を見たことがある方は多いと思います。飲食店の入口、旧いお宅の門口。なぜ塩なのか、何が変わるのか。説明されないまま続いてきた習わしです。
そして玄関先を掃く、あの習慣。朝でも夕でも、竹箒(たけぼうき)で三度ほど。この二つは、じつは同じことを言っています。「外のものを、内へ持ち込まない」。今日のあなたに、どうしても必要な考え方です。
言われた言葉が、夜に再生されていませんか
筋の通らない怒りを浴びた。人前で理由も告げられずに責められた。自分の仕事でないことの責任だけを渡された。その場では言い返せず、「すみません」と言った自分の声だけが、やけに鮮明に残っている。
そして帰り道、電車の窓に映る自分を見ながら、もう一度あの場面を再生します。家に着いても再生は止まりません。風呂の中で、布団の中で、翌朝の歯磨きの最中に。
何度も再生してしまうのは、あなたが弱いからではありません。納得していないからです。納得していないものを、心は手放せません。それは正しい反応です。ただ、その棘(とげ)を持ったまま家に入ると、刺さるのはあなたと、あなたの大切な人になってしまいます。
塩と箒は、内と外を分ける道具でした
塩は、日本の暮らしのなかで清めの役を担ってきました。傷みを防ぎ、保たせ、区切る。門口に置くという行為は、目には見えない線を引くことでした。ここまでが外、ここからが内。
掃き清めも同じです。落ち葉や砂を掃くことは、埃を除く作業でありながら、「うちは今日ここを整えました」という表明でもありました。整えられた場所には、人は乱れた足で入りにくくなります。
「持ち込まない」とは、忘れることではありません
誤解されやすいのですが、これは忘却の技ではありません。理不尽を「なかったこと」にする必要はありません。悔しさを消さなくてよいのです。
やるのは、置き場所を変えるだけです。心の中に持ち歩くのをやめて、玄関という一点に降ろす。そこに置いてあると分かっていれば、心は安心して手を離します。明日また拾い上げて、必要なら戦ってよいのです。ただ、家の中まで連れて入らない。それだけで、夜の質が変わります。
聖天様のお言葉
「棘(とげ)を抜かずに抱えて眠る者よ。それはそなたの落ち度ではない。ただ、門口に置いてから入るがよい。ワシが見ておる。逃げるのではのうて、預けるのじゃ」
今日からできる小さな一歩
玄関で三十秒、掃いてから入る
今日の帰り、玄関のたたきを軽く掃いてください。ほんの三十秒、三往復で十分です。箒がなければ、靴を揃えるだけでもかまいません。手を動かしながら、心の中で一言だけ置いていきます。「これはここに置きます」。
盛り塩を置きたい方は、白い小皿に清い塩を少量、円錐に盛って玄関の内側へ。週に一度、取り替えて、古いものは流すか、ごみとして出してください。作法を厳密に守ることよりも、続けられる形にすることが大切です。
言い返せなかった言葉は、朝に一行だけ書く
もうひとつ。浴びた言葉のうち、どうしても納得できない一つだけを、翌朝、紙に一行書いてみてください。「あれは私の責任ではなかった」。誰にも見せません。書くと、心の中で再生する回数が確実に減ります。心は、どこかに記録されたものを守り続ける必要がなくなるからです。
結びに
理不尽な言葉を浴びる人は、多くの場合、その場を壊さないために黙った人です。あなたが黙ったおかげで収まった場が、たぶん何度もありました。そのことを誰も数えていないので、私たち聖夫婦が数えておきます。
あなたは、他人の乱れを自分の家まで運ばなくてよい人です。玄関は、そのために作られています。
今日は家に入る前に、一度だけ足を止めてください。その三十秒が、あなたの内側を守る境目になります。
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