願い事を書けずに、手が止まる夜
夏の夜、願い事のノートを前にして、ふと手が止まってしまった経験はありませんか。
「こんなことを願っていいのだろうか」「欲張りだと思われないだろうか」――そうためらううちに、結局何も書けずに終わってしまう。
私たち聖夫婦のもとにも、こうした「願うことへの遠慮」に苦しむ声が届きます。
願い事を書く手が止まるとき、あなたの心の中では「望むこと=わがまま」という思い込みが働いているのかもしれません。けれど聖天信仰では、望むことを決して恥ずべきものとはしません。むしろ、望みを持つことそのものを、生きる力のあらわれとして大切にします。今夜、手が止まってしまったあなたに、聖天様の「欲を恥じない」教えをお伝えしたいと思います。
「欲」は、あなたが前を向いている証
「欲」という言葉には、どこか後ろめたい響きがあります。欲深い、強欲――そうした言葉に引きずられて、私たちは自分の望みにまで罪悪感を抱いてしまいがちです。けれど、よく考えてみてください。「こうなりたい」「これがほしい」という気持ちは、あなたがまだ人生に何かを期待している証ではないでしょうか。
本当に心が枯れてしまったとき、人は何も望めなくなります。願い事を書こうとして手が止まるのは、裏を返せば、あなたの中にまだ確かな望みが息づいているということ。その望みは、恥じるべきものではなく、あなたがまだ前を向いている何よりのあかしなのです。ざらついた短冊にペンを当てながらためらうその指先には、生きたいという静かな願いが宿っています。
望むことをためらうあなたへ、聖天様のお言葉
願いを書けずにいるあなたに、聖天様はこう説かれます。
「望むことは、汚れではない。生きたい心の、証じゃ。恥じて呑み込んだ願いほど、そなたを内から重くする。遠慮なく、書いてみよ。」
恥じて呑み込んだ願いは、消えるのではなく、心の底に沈んで重しになる。だからこそ、遠慮なく書き出してよいのだと、聖天様は促してくださいます。聖天様はどんな願いも受け止めてくださる神様です。大きな願いも、ささやかな願いも、そこに優劣はありません。
今日できる、「小さな願いから書く」作法
それでも手が止まってしまうときの、聖天様の教えに基づく実践をお伝えします。それは「小さな願いから書く」ことです。
いきなり大きな願いを書こうとすると、その重みに手が止まります。そこで、まずは「今夜ぐっすり眠れますように」「明日の朝、少し早く起きられますように」といった、ごく小さな願いから書き始めてみてください。ペン先が紙を滑る感触を確かめながら、一つ、また一つ。小さな願いを書くうちに、心の遠慮がほどけ、いつしか本当に望んでいた願いが自然とペン先からこぼれてくると言われています。願いに大小の優劣はありません。書けたその一つひとつが、あなたの本音の断片なのです。
なお、切実な悩みを一人で抱えておられる場合は、信仰とあわせて、信頼できる人や専門の窓口にも思いを分けてください。呑み込んだ願いは、言葉にすることで軽くなっていきます。
遠慮なく、あなたの望みを
今夜、もし願い事を書く手が止まっていたら、どうか思い出してください。望むことは、汚れではありません。それは、あなたがまだ生きたいと願っている、美しいあかしです。
大きくても、小さくても構いません。恥じずに、遠慮なく、あなたの望みを一つ書いてみてください。呑み込んで重くなるより、書いて軽くなる夜を。聖天様は、そのすべてを静かに受け止めてくださっています。
あなたがそれを願うのは…願いが叶うからなのですから。
▼ 無料相談はこちら

▼ 聖天様への御祈祷

皆様からのコメントお待ちしております。