聖天信仰の基本は「無理しない」ことです。この言葉は多くの人々が耳にしていると存じます。
何故に無理しないことが基本なのでしょうか、それは聖天信仰が一生涯の信仰であるからです。もちろんこれは聖天信仰に限らず荼枳尼天信仰でも大黒天信仰でも毘沙門天信仰でも同じです。
人間は無理すると必ず継続できなくなります。聖天信仰も無理すると継続できなくなり、結果は無理することで本末転倒となります。
但し、この無理しないとう言葉に甘える人がいます。無理しないという意味は「怠って良い」とか「努力しなくて良い」という意味では御座いません。
もちろん、何ら願い事は無く、ただ単に聖天様との御縁を繋ぐだけなら良いかもしれませんが、聖天信仰される殆どの人は、必ずや何らかの願い事を胸に抱いておられると存じます。
良いとは最善にあらず構わないとの意味
例えば、聖天様の寺院で聖天様のお札を授かるとします。お札は聖天様の分身でありますので、聖天様を自宅にお迎えするということになります。
そこで皆様が気になるのは自宅でのお札に対する作法かと存じます。どうすれば良いのか寺院の人に聞くと「無理しなくて良い」と言われると思いますし、私も言います。
但し、ここで言われる「良い」とは「最善」という意味ではなく「構わない」という意味です。お札を授かり失礼のない場所に安置したら、毎日朝夕に拝礼するわけですが、必ずや読経しないと駄目だということもなく、ただ合掌し御真言を唱えるだけでも、挨拶するだけでも良いです。
それでは言い換えますね。ただ合掌し御真言を唱えるだけでも挨拶するだけでも構わないです。
聖天様のお札を自宅にお迎えし、失礼の無い場所に安置したら、挨拶だけでも良い(構わない)ですが、それは差し支えは無いという意味であり、願い叶うという意味では御座いません。
先程も書き記しましたが、聖天様に願い叶えてもらうわけじゃなく、ただ単に聖天様との御縁を繋ぐという意味では良いかと存じますが、聖天様に願い叶えて欲しいなら、挨拶だけで最善とは言えません。
もちろん、挨拶だけで願い叶うならば、それで良しかも知れませんが、先ず困難かと存じます。聖天様への願いが、大願であればあるほど困難と言え、挨拶のみならず努力すべしと存じます。つまり「良い」ではなく「最善」の努力精進が求められると存じます。
ただ、これも無理をしては駄目です。願い事があるから大願だからと、無理をしても継続せず、結果的に願い叶い難しとなること目に見えています。
継続できる最善を尽くすべし
それでは、どうすれば良いのか、それは聖天様との御縁の深さに身を任せて、自然な流れに身を委ねながらも、継続出来る範囲内で最善の努力をすることが大切と存じます。
聖天様との御縁が薄い間は、お札を授かれど安置するだけかもしれません。そこから聖天様との御縁が深まることで、合掌したり、挨拶したり、御真言を唱えたり、般若心経を唱えたり、更に聖天様の経本を購入し読経するようになるかもしれません。
最初はお札を安置するだけで、何も御供をすること無かったとしても、聖天様との御縁が深まれば深まるほど、ロウソク・お線香・お花・一番水を御供するようになり、大根・お酒・甘菓子・その他、聖天様が喜んでくれそうな御供をするようになるかもしれません。
これ参拝も同じです。
聖天様との御縁が薄い間は1年に1回の参拝かもしれません。そこから聖天様との御縁が深まることで、半年に1回となり、やがて月に1回となり、更には週に1回となるかもしれませんし、参拝に行けば、お百度参りを行なうようになるかもしれません。
楽して願い叶うというような甘い考えは無いと思いますが、よほど前世で徳を積まれた人以外、まず楽して願い叶いませんので、願い叶わないと感じたら其れ相応の努力を惜しまぬことです。
願い叶うに絶対的に必要となるのは功徳です。つまりは大願であればあるほど其れ相応の功徳を積む必要が御座います。これつまり善行です。他の人に喜んで貰える行い、世の中に、社会に、喜んでもらえる行いと言えます。
それと同時に継続出来る最善を尽くした、聖天様との御縁の深さは、必須かと存じます。
この世を生きるにビジネスも信仰も同じです。
全ては「意識あるところに行動あり、行動あるところに結果あり」であると心得るべしです。
合掌
皆様からのコメントお待ちしております。