人間の迷い・苦しみの根本的な原因を「煩悩」といいます。
その代表格が三毒といわれています。
貪:むさぼり・必要以上に求める心
瞋:怒り・憎しみ・妬みの心
痴:おろかさ・愚痴・無知
今回はその中でも『貪』むさぼり・必要以上に求める心についてのお話です。
もっともっとと願うことはいけないことなのか?
人間は欲のある生き物です。
これは、聖天様もよく知っておられます。
聖天様は、現世利益最強神といわれています。
現世での欲を叶えてくださる神様なのです。
現世での欲を叶えて下さる神様だとしたら、貪ることは要は欲なので、悪くないじゃないか!と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、貪ることは悪であり、この『貪る』という心の煩悩は排除すべきことでもあります。
『貪ること』と『こうなりたいと願う』ことの違い
「もっと~なりたい」という気持ちが湧いてくるからこそ、向上心が生まれてきます。
これは、とてもいいことであり、これがあるからこそ、人生を楽しめる、頑張れるのだと思います。
しかし、「もっと~なりたい」というのは、もっともっとと願う欲、『貪ること』でもありますが、この向上心が含まれる『貪ること』は、聖天様の意に沿った欲であり、聖天様が叶えて下さる『願い事』であります。
では、一体何がいけないのか。
この『貪ること』のほとんどが、人間を苦しめる、自分中心の考えであり、それに基づく物事への執着であるといえます。
欲を必要以上に持つとどうなるのか、自分中心の我欲だけの貪りについて考えてみましょう。
お金が欲しい・・・この煩悩が叶ったら、
お金が手に入ったから、次は、地位が欲しい・・・この煩悩が叶ったら、
次は、お金と地位が手に入ったから、今度は周りから愛されたい、尊敬される自分になりたい・・・
などなど、どんどんと欲は大きく深く広がっていきます。
しかも、欲は満たされることはなく、もっともっとと際限がありません。
そして、満たされない事に怒りを感じ、人を羨み、妬み、嫉みなど負の感情が出てきます。心の三毒の瞋ですね。
そして、その様な状態が続くと、愚痴っぽくなっていきます。心の三毒の痴ですね。
もう負の連鎖。ネガティブ感情てんこ盛り状態です。これでは聖天様の意に沿う人間とは言えません。
では、どうすれば、いいのでしょうか。
もっともっとと思うのならば、それを叶えて頂ける人間にならなくてはいけません。
もっともっとと願っても叶えて頂ける人間でなくてはいけません。
叶えて頂くために出来ることがあるはずです。
『徳を積むこと』を忘れてはいけません。
お金が欲しい・・・この欲が叶ったのなら、
そのお金で、世のため人の為になることもするべきです。
お金の願いが叶ったので、次は、地位が欲しい・・・この欲が叶ったら、
その授かった地位でしか出来無いような世のため人の為になることもするべきです。
など、願いが叶えば出来ることもあるはずですし、出来ることも増えてくる筈です。
願いが叶ったなら、聖天様への信仰をますます深めて、聖天様の意に沿う人間となるように、自分に今できる事を考え、世の為、人の為になるような事をして、せっせと徳を積み、さらに聖天様の意に沿う人間となり、されに良き方向へと導いて下さるのが聖天様です。それが出来ない人間には、もっともっとと願っても次はありえません。
聖天様の意に沿う生き方をしている、そんな人間だからこそ、次があるのです。
もっともっとが、必要以上の貪りなのか、向上心からくる欲なのか。今一度自分自身を振り返る必要があるのかもしれません。
そして自分は今、聖天様の意に沿う生き方をしているのかどうか、内省してみるのもいいかもしれません。
合掌
皆様からのコメントお待ちしております。