信仰は自分勝手に行うものでは御座いません。
信仰は各寺院の作法に則り行うものです。
信仰は各宗派の作法に則り行うものです。
信仰は仏法に則り行うものです。
総じて、信仰とは神仏様の意に適う作法で行うものです。
決して、自分の意に適う自分勝手な作法で行うものでは御座いません。
仮に、自分の意に適う自分勝手な作法で行ったところで利益なしです。
例えば、人は基本的に苦より楽を選びます。
出来るだけ楽して叶えて欲しい。
そんな人に限って願い叶わぬという判断が早く諦めも早い😅
参拝に行くのは面倒、自宅にお札を祀るのも面倒、ご祈祷や御供もお金が勿体無い、出来るだけ楽してお金かけず叶えて欲しい。
こんな意識を顕在意識として抱いている人は、まだ救いがあります。
これを知り意識の改善をすれば良いのです。
ただ、これを潜在意識として抱いている人は、厄介です。
そもそも、自分で自分勝手な信仰だと気付いていないので、改善できません。
また楽するだけが自分勝手な信仰では御座いません。
例えば不徳な願い。
自分が思う願いが不徳だと知るも、納得できない人がいます。
これまた自分勝手な信仰と言えます。
人間同士でも自分勝手な人は嫌われます。
自分勝手な人には徳がなく人は離れて行きます。
聖天様は、どんな願いも叶えてくれる神様です。
だからといって、人間の自分勝手な信仰による願を叶えてくれるなんて思ったら大間違いです。
そもそも、叶えてくれる以前の問題として、そんな信仰する人間に聖天様は振り向かれません。
聖天様は、人間を大切に思うから願い叶えてくれるのです。
ならば、願い叶えて欲しいと願う我々人間から、聖天様を大切に思うべきではないでしょうか。
聖天様を大切に思う気持ちは、必ず行動として出ますし、その行動が願い叶う結果を生みます。
自分から願い叶えて欲しいと願う立場にも関わらず、自分は聖天様を大切に思わず、聖天様の意に適う信仰をせず、願いだけ叶えて欲しいなど、神様に対し上から目線というか、無礼千万であると存じます。
合掌
皆様からのコメントお待ちしております。