聖天様(歓喜天)は人を選ぶ神様です。
聖天様(歓喜天)から御縁を授からなければ聖天様(歓喜天)の名を知ることも御座いません。
つまり、聖天様から御縁を授かったということは願い叶ったも同じであり救われたも同然なのです。
ところが願い叶わぬ方に限って聖天様(歓喜天)に願うばかりで自らの努力を怠り結果的に願い叶わずで終えるのです。
願い叶わずな人間は、聖天様(歓喜天)から御縁を授かったことで他力本願となり願うことしかしませんが、聖天様(歓喜天)が御縁を授けて下さったのは「無条件で願い叶える」という意味ではなく、「我に一心不乱に縋り努力を怠らなければ叶える」と解すべきです。
もちろん願い事にも大小あって、小さな願いであれば無条件で叶えて下さる場合も御座いますが、大願ともなれば努力を怠らず功徳を積む必要が御座います。
先ずは御縁を授かった寺院で浴油祈祷する。
これ一般的な聖天信仰のスタートかと存じます。
ここからが問題です。
あなたは聖天様(歓喜天)に願う大きさに似合った功徳をお持ちですか?
仮にお持ちであれば無条件でご利益を授かり願い叶うでしょう。
しかし聖天様(歓喜天)に縋る多くの方は功徳が足りません。
逆に言えば功徳が足りないから願い叶わず聖天様(歓喜天)に縋ることになるのです。
他の諸仏諸神様の場合は願い叶えるべき人に対し叶えて下さいます。
しかし聖天様(歓喜天)は他の諸仏諸神様に見捨てられた者であっても、聖天様(歓喜天)に一心不乱に縋り努力を怠らず功徳を積めばご利益を授け救って下さる慈悲深い神様なのです。
話を戻しますが、聖天様(歓喜天)から御縁を授かり聖天様(歓喜天)に縋りながら、願いの大きさに応じた功徳を積むことが祈願成就の王道です。
浴油祈祷して願い叶えば良しですが、駄目なら続けながら次のステップに進むべきで御座います。
駄目なことばかりをいくら続けても相当な時間が必要ですし駄目です。
例えば「御守で駄目ならお札」を祀る。
聖天様(歓喜天)の御縁日に参拝して駄目なら、追加でお百度参りする。
御真言で駄目なら追加で般若心経を唱える。
般若心経で駄目なら経典を購入し唱える。
御真言100回で駄目なら1000回唱える。
その他
言い出したらキリがないですが、今の聖天信仰がゴールだと思ったら大間違いであり、聖天様(歓喜天)に願い叶えて欲しければ、まだ足りぬこと何でも行うべきです。
まだまだ学ぶことも行うことも沢山あるかと存じます。
ちなみに私ら聖夫婦も発展途上にあり、次は何を学ぶか、次は何を行うか、終わることのない努力を、今後もし続ける所存で御座います。
今この記事を読まれている読者様は聖天様(歓喜天)から御縁を授かるも願い叶わぬという方が多いかと存じますが、願い叶わぬなら願い叶えて貰えるよう出来ることは何でもすべきで御座います。
あれ駄目、これ駄目、それ無理・・・なんて出来ない理由を探す方にご利益は御座いません。
合掌
執筆者:聖パパ
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