本物の御縁は双方向
聖天様(歓喜天)は、人を選ぶ神様です。
聖天様(歓喜天)との御縁は、聖天様(歓喜天)からの授かりものです。
聖天様(歓喜天)から御縁を授かり、「願い叶えてもらう為に何を何処まですれば良いのか」と考える人がいますが、これは御縁を授かれど未だに薄い御縁であると言えます。
聖天様(歓喜天)から御縁を授かり、「聖天様(歓喜天)の為に、何か出来ることはないか、あれもしたい、これもしたい、もっとしたい」と、自然に自ら感じて行動するようになること、本物の御縁と言えます。
先ず「願い叶えてもらう為」でなく「聖天様(歓喜天)の為」です。
次に「何をすれば良いのか」ではなく「何かしたい」とう意識です。
これぞ正しく本物の御縁であり、聖天様(歓喜天)も「あなたの為」に「願い叶え」て下さいます。
聖天様(歓喜天)との御縁は勿論のことですが、本物の御縁とは一方向ではなく双方向であります。
追記
願い叶えてもらう為に御真言を1000回唱えたりすることは普通です。
ただ、その信仰の中に聖天様を想う意識と行動(例えば・・・聖天様に美味しいものを食べ欲しい!など・・・)が加わってこそ、本物の御縁と言えるのだと存じます。
人間同士でも、自分の為を想ってくれる人から何か頼まれるのと、自分のことしか考えていない人から何か頼まれるのと、受け止め方が違うのは当然であると存じます。
合掌
皆様からのコメントお待ちしております。
いつもブログを拝見させて頂きありがとうございます。
質問ですが、よろしいでしょうか?
聖天様への信仰は一生の事だと思いますが、願い叶うまではどうしても「叶えて頂く為に◯◯しよう。◯◯した方が叶うだろうか?」の意識が有り、ついつい自分本意の行動になってしまう気がします。
願い叶ったら、「叶えて頂いた聖天の為に」と聖天様中心の考えに移行し、本物の御縁になる様に思いますが、この様な考えは叶い難しでしょうか?
文面からして何が本物の御縁かとう所は理解して頂いているかと存じます。
願い叶い難しか否かは貴殿の功徳や願意によっても左右されると存じますが、同じ功徳と同じ願意を抱く本物の御縁である人間と未だ本物の御縁でない人間が居たとしたら、先に本物の御縁である人間の願いが叶うこと必然かと存じます。
合掌
ありがとうございます。やらされているか、やりたいと思っての行動かの違いですね。
それも大切ですね!^^
上のコメント返信にも書きましたが、私の書き方が良くなかったのかもしれません。
願い叶えて欲しいとう意識と行動だけか、そこへ聖天様を想う意識と行動もあるかの違いです。
コメント有難う御座いました。
これからも宜しくお願い致します。
合掌
私の返信も悪かった様です。初めは「叶えて頂く為に◯◯を」とやらされているから自然と「叶えて頂く為に」が抜けて「聖天様に◯◯を」と思う様になると御縁が深まっている。と言う事ですね。
はい^^
その通りで御座います。
どうぞ聖天様との御縁を深められて下さい。
一日も早い祈願成就を心から祈念しております。
合掌
願いを叶えて欲しいから毎日1000回真言を唱えている人より、聖天様の為にと毎日7回唱えた方が叶いやすいと言う事ですか?
私の書き方が良くなかったのか本意が伝わっていないようです。
願い叶えて欲しいから御真言を唱える、これ普通ですから7回より1000回の方が良いです。
ただ、願い叶えて欲しいというばかりの意識と行動は、本物の御縁と言えないという意味です。
例えば一歩外に出た時に「聖天様これ好きかな」とか「聖天様このお花好きかな」とか聖天様の為に何かしたいと感じる心があってこそ聖天様を想う行動と結果が生まれ、その気持が聖天様に通じ、それが功徳にもなり、叶えて下さるのではないかと存じます。
人間同士でも自分の為を考えてくれる相手には、何かしたくなるものですが、人間であれ神様であれ、これが世の常かと存じます。
コメント有難う御座いました。
これからも宜しくお願い致します。
合掌