諸天の為に捨てられて、我れを想えば即時に悉地を現じて皆円満すと云々。
これは「聖天講式」に書かれてある一文です。
つまり、たとえ諸仏諸神様に見捨てられた人間であろうとも、聖天様(歓喜天)にすがり救いを求めれば、必ず助けて下さるという意味です。
凄いですよね。
実際この世には、諸仏諸神様に見捨てられる人間は沢山います。
ちなみに、私の父も見捨てられた人間の1人でした。
しかし、私の父は聖天様(歓喜天)からご縁を授かっておらず、聖天様(歓喜天)を知らなかったのです。
まぁ私の父の話は、また次の機会に書くとして、今日はこの「又曰く若し人、諸天の為に捨てられて、我れを想えば即時に悉地を現じて皆円満すと云々。当に知るべし此の天の利生の方便は自余の仏神に超過す」に注目です。
聖天様(歓喜天)は怖い!とか、聖天様(歓喜天)は恐ろしい!とか、聖天様(歓喜天)は祟り神!とか、一部では聖天様(歓喜天)を知らない方が好き放題に言われていますが、全ては聖天様(歓喜天)からご縁を授かっていない残念な方々なのです。
聖天様(歓喜天)からご縁を授かった人間からすれば、聖天様(歓喜天)ほど慈悲深い方はいらっしゃいません。
その理由の1つに先程も述べた通り、他の諸仏諸神様に見捨てられた人間でも、聖天様(歓喜天)にすがり救いを求めれば助けて下さるのです。
こんな優しい慈悲深い聖天様(歓喜天)は他におらず、聖天様(歓喜天)にご縁を授かった人間は、その時点で救われたも同然なのです。
以前にも書いた「遇い難き聖天の法」という言葉通り、この世に人間として生まれて来たこと事態が奇蹟であり、その上に聖天様(歓喜天)に出逢えたこと事態があり得ない奇蹟であり喜びであるのです。
しかも、聖天様(歓喜天)は他の諸仏諸神様に見捨てられた人間でも救って下さる。
これはもう、聖天様(歓喜天)に出逢えた時点で救われたも同然だということ明らかですよね。
仮に聖天様(歓喜天)からご縁を授かり、救われなかったとしたら、それは我々人間の方に問題があるのです。
空が飛びたいなど客観的に無理な祈願をしているか、他力本願など間違った方法で祈願をしているか、何らかの問題があるので、なかなか祈願成就しない方は、一度見直すことも大切かと思われます。
聖天様(歓喜天)に間違った祈願をしなければ、たとえ他の諸仏諸神様に見捨てられようとも、聖天様(歓喜天)を心から信じて助けを求めれば、聖天様(歓喜天)は必ずや救って下さいますので、最後まで聖天様(歓喜天)に信心することです。
その教えが、聖天講式にある「又曰く若し人、諸天の為に捨てられて、我れを想えば即時に悉地を現じて皆円満すと云々。当に知るべし此の天の利生の方便は自余の仏神に超過す」です。
合掌
執筆者:パパ
皆様からのコメントお待ちしております。
初めまして、時折拝見させていただいております。
大変初心者的質問で申し訳ございませんが…
「聖天様とご縁を結ぶ」とは、具体的にどのようなことを指すのでしょうか?
と申しますが、どのような状態をそのように仰っていらっしゃるのでしょうか?
ブログを拝見するに、どうも、単に聖天様をお祀りする寺院に参拝するですとか、
ご祈祷を受けるですとか、そのようなお話ではないように感じるのですが。
こちらのブログではさらっと普通に使われている言葉なので、少々混乱しております。
そして自分はどうなのだろうと考えてしまいます。
何卒、ご教示をお願い申し上げます。
はじめまして^^
コメント有難う御座います。
一言で御縁と言うなら聖天信仰するようになれば御縁を授かったことになるかと存じます。
後は御縁の深さですね。
気になるようでしたら個人的なことにて無料相談から連絡して下さい。
引き続き宜しくお願い致します。
合掌
早速のお返事、ありがとうございます。
続きは子細にて、無料相談をお願い申し上げます。
かしこまりました。
いつでもお待ちしております。
合掌