僧侶様の法話
執筆者:瑞鳳天祥
今日は、大晦日恒例の除夜に付いてお話しましょう
除夜会とは、大晦日の夜、去り行く年の罪や穢れや煩悩を払い新しい年と新年の神様で有る歳神樣を寝ないで待つ日でも有り冬から春を迎える為の準備の日と為ります。
除夜は、一年を除く夜と言う意味を持ちその語源は、人々が夜を守り暮れ往く年を名残惜しむ事から此の一夜を送る意味と謂う説や此の季節の変わり目の夜に禍をもたらす鬼や魔を祓う行事とされ現在の節分は、除夜の行事だったとも伝えられて居ます。
かつては、時計が無い時代は、寺院の鐘や櫓太鼓等々が時計の役割を果たして居り、日没が一日の境でしたので大晦日の日没を境に新年と成り除夜会は、新年の行事とされて居ました。
さてそこで各寺院では、鐘を突く訳ですが其の鐘の低くも遠くへ響く清んだ音色は、佛樣の聲に喩えられその数、百八つは、人の苦しみの元と成る煩悩の数とされ詳細には、様々な欲や心の穢れの数を示し数珠の数と同じで御座います。
さて此の【煩悩】と申します言葉ですが世間では、「子煩悩」「煩悩を捨てる」等身近な言葉の一つですが煩悩とは、仏教要語の一つ「汚すもの」「苦しめるもの」等を意味するサンスクリット語の「クレーシャ」の漢語訳です。
又、除夜會に突かれる梵鐘の数も108回で一つ突く毎に煩悩を一つ消し去るとされます。
さて何故、除夜會で梵鐘を突くかと謂うと日頃から仏教の業を積む者は、煩悩を取り除き悟りを開く事が出来るとされますが除夜の鐘には、業を積んで居ない人でも心の乱れ、穢れ、欲望を祓い浄めると謂う信仰が現在に至り除夜會の重要な儀式の一つと為って居ります。
其の理由としては、日頃仏壇で鳴らします馨[ケイ](鈴、鐘)ですが此を鳴らす事で、基本的には、礼拝の合図や御経の区切りの合図で御座いますが他の意味合いとして其の音魂や音色で佛樣をお呼びしたり、喜ばし又、邪気を祓い浄めるとされ同様な意味合いとして神社で用いられる鈴が其に相等しますね。
さて煩悩の数は、時代や宗派、教派でまちまちですが根源は、「身、口、意」の3つの冒す「貪欲→貪り」「瞋恚→怒り」「愚痴→愚かさ」の「三毒」とされ其所から「十二因縁」や「九十八随眠」、「百八煩悩」、「八万四千煩悩」と無数に拡がりを見せ細分化すると無限に近い数に成るそうですが人の欲望は、図り知れないですね。
故に其の一つ一つを鐘の聲【佛樣の聲】で罪咎、穢れを払いつつ謝る意味が有ります。
又、愚僧の宗門では、僧侶が鐘を突く際には、一打ずつ【鳴鐘之偈(めいしょうのげ)】を唱え礼拝の後に突きますが其の偈文とは、
【三途八難・息苦停酸・法界衆生・聞聲悟道】
読み方は
【さんずはーなん・そっくじょうさん・ほっかいしゅじょう・もんしょうごどう】
意味は、諸々の命を戴くもの三界萬霊に至るあまねく命一切の苦や難を離れ是の鐘の聲(佛の聲)を聞き悟りの道へと入らせ賜え…。
と言う意味で刻を告げる鐘を突く際や除夜会でも唱えますし鐘を突かれる一般の方にも御伝えして御唱えする事をお勧めして居ります。
無論、除夜会で鐘を突かれる際に御唱えすれば只単に突くよりも、功徳が有りますし其の祈りは、あまねく世界へ其の音色と共に広がります。
因みに愚僧の実家の東北地方では、大晦日に寺社にお籠りをすれば翌年の禍を避けられるとされ参籠する習わしも有りますし又「二年参り」と申しまして大晦日から元旦に掛けて寺社に参拝すると二年分の御利益が有るそうです。
ですから新しい年を迎える為、近くの除夜会へ御出掛けになられては、如何かと思いますが最近の都市部では、除夜の鐘に関する苦情から中止する寺院も見受けられ複雑な思いと些か哀しくも有りますが…。
本年も後僅かでは、御座いますが皆樣の御多幸並びに健やか為る御越年を御祈念申し上げ本年の講釈を終えたいと存じます。
御拝読戴きました皆樣に置かれましては、愚僧の稚拙な文章にお付き合い戴き此の場を御借りして感謝の意を申しあげ来年も変わらぬ御厚誼を賜り度、御願い申しあげます。
天祥 九拝
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