僧侶様の法話
執筆者:瑞鳳天祥
さて今日は、【会者定離(えしゃじょうり)】に付いて講釈して見ましょう
会者定離とは、【仏垂般涅槃略説教誡経。通称、仏遺教経】に説かれて居ります内容に御座いますが簡単に申し上げると出会いと別れの必然性を説いた言葉でして皆樣の日常の中でも出会いと別れの繰り返しですね
日常に於いては、学校や会社に出勤して「御早う」の挨拶と共に他者と顔を合わせ夕刻には、「さようなら」「御疲れ様・・・」の言葉と共に帰宅の路を歩む訳で御座いまして・・・。
一番解り易いのは、男女の仲で御座います。
出逢いから始まり恋愛に発展し結婚に向かうか其の前に離別するかは、有りますが如何に永久の愛を誓うとも最終的には、死別と謂う別れの刻が訪れます。
さて、此の樣な出会いと別れを繰り返す理由は、何でしょうか?
皆樣の中には、深い情を交わして居たのに突然の別れを迎え悲嘆に暮れて居る方もいらっしゃるかも知れませんね
情が深ければ深い程別れの刻は、辛く身を裂かれる程辛く応に【四苦八苦】の一つの【愛別離苦】と為りますね
では何故に別れが訪れるかと謂うと別れを通じて学ぶ事や共に過ごす限られた時間の中で学ぶ事が有る訳で其の事を経験する事で心の成長を促す役割が御座います。
人は、不完全な存在ですから極端に安定すると感覚が麻痺してしまいさも不変的、絶対的なものと勘違いを致しまして其の事柄の本質を見失いがちに成ってしまいます。
又、人の処理出来る事柄は、限られて居ますから記憶を始め物事の必要に応じて取捨選択をしなければ為りません
故に各々の成長に応じて縁に従い出会いと別れが等しく訪れますし其の経験から人は、多くを学び更に成長をするのです。
要するに、【変壊(へんね)と質礙(しつげ)】の関係に因り刻の流れに従い物事は、変化し出会いと別れを繰り返し人は、成長するのです。
此の変壊と質礙の意味とは、【変壊】とは、諸行無常に含まれる内容ですが謂わば刻の流れと共に全ての物は、変化し滅び往くと謂う意味で【質礙】とは、同じ時間軸に於いて一つの命が別々の場所に於いて存在、行動、経験等は、出来ないと謂う意味でして当たり前と言えば当たり前ですが此の二つの理は、肉体を持ち現世に有る以上絶対的な法則に御座います。
故に刹那の行動や考えが【因】と成り様々な縁起に依って未来と謂う【果】が生まれます。
此の理に従い別れの刻は、必ず訪れるのですから共に過ごす刹那を大切にしなければ為りませんし其の縁に感謝して過ごす事が肝要ですし別れの時も嘆き哀しみ留め執着するのでは、無く其の縁から学び又、新たな歩みを進め無ければ為りません
其の事に依り貴方の本質は、更に輝きを増し新たな縁を育む事と為ります。
男女の縁も然り恋愛は、恋から愛に変わる為のプロセスですし本当の伴侶に出逢う為の新たなステップですから別れを嘆くのでは、無く其の事から学び取る事なのです。
別れの刻は、刀風の如く貴方の心を切り裂き寂寥と憂き目の悲しみに誘うかも知れません
しかし其の哀しみを乗り越え歩み始めた時、貴方は、更に成長し新たな幸福が訪れるのです。
須く、哀しみを知るが故に人は、喜びを知り、別れの苦しみを知るが故に【一期一会】の出会いの喜びに感謝し共に過ごす刹那を大切に出来るのですね
更に最近巷では、「人生会議」や「終活」成る言葉を耳に致しますが…。
内容としては、自身の【死】に対する様々な在り方等云々と申して居りまして些かデリケートでは、御座いますが先のお話の通り必ず訪れるものですし目を背けても【刀風】は、突然吹き抜けるものですから愚僧自身は、【生と死】と謂う相反する事柄ですが双方に対して目を向ける事が肝要かと思います。
謂わば死に対して恐怖や嫌悪感のみで考えるのでは、無く死と謂う逃れられ無い絶対的な区切りに対して如何に迎え更に其の事柄を前提条件に如何に【生きる】かと謂う【命】に対しての向き合い方に通じるもので有るかと思います。
更に少々余談で御座いますが諺の一つに【袖触れ合うも多少の縁】と申しますが此の縁と申しますものは、決して決められた存在では、無く例えるならばチャート式の様なものでおおよその流れは、有っても選択肢は、無数に広がって居ります。
謂わば貴方自身の考えや行動一つで縁も結果も全てが変わると謂う事で謂わば【運命】とは、命が生まれ死を迎える迄の主軸【先天的な徳】を意味するもので決して全ての縁や流れが決まったものでは、無く選択して居るのは、自身で有りますが先天的な徳に更に力を貸して下さるのが神佛の力で有る事を意識為されると良いかと思います。
天祥 九拝
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