聖天様はどんな願いも叶えてくれる神様。聖天様は他の神仏様で叶わない願いも叶えてくれる神様。聖天様は現世利益最強の神様。これまで幾度となく言い続けて来たことでは御座いますが、これを知ったことで「安易に願い叶う聖天信仰」と勘違いされる人が居ますが大間違いです。
聖天様はどんな願いも叶えてくれる神様。聖天様は他の神仏様で叶わない願いも叶えてくれる神様。聖天様は現世利益最強の神様。ですが、安易に願い叶えてくれる神様では御座いません。
安易とは「努力しなくとも簡単に出来る」という意味であり、努力しなくても簡単に願い叶うと思えば願い叶わず落胆することになります。しかしこれは聖天様が願い叶えられないのではなく安易な聖天信仰では願い叶えて貰えないのです。
これは聖天信仰に限らず、如何なる神仏様であっても、安易な信仰で願い叶えてもらえずにて、願い叶える為の本人努力と、願い叶えて貰える為の信仰努力は、必要不可欠かと存じます。
願い叶うか否かの99%は本人努力と存じます。あと人間の努力ではどうにもならない1%は、99%の努力した者にだけ与えられる、聖天様の(神仏様)ご利益(偉大な1%)に存じます。
聖天様はどんな願いも叶えてくれる神様。聖天様は他の神仏様で叶わない願いも叶えてくれる神様。聖天様は現世利益最強の神様。ですが、安易に願い叶えてくれる神様では御座いませんし、誰でも彼でも願い叶えてくれる神様でも御座いません。
合掌
皆様からのコメントお待ちしております。
他の神仏様は、お腹をすかして泣いてる赤子にただ「泣くでない」と仰られ、聖天様は先に食べ物を与えてから「泣くでない」と仰られるのでしょうか?
この一文を読むと、聖天様は先に願いを叶えて下さる神様と思えてしまいますし、聖天様のご真言を唱えながら会いたい者の名前を呼ぶと即座に会え、願い叶う。と言う一文も有ります。
どちらが本当の聖天様のお姿なのでしょうか?
愚僧の解答で御理解戴けるかは、不安で御座いますが先ず一つ目の質問に関ましては、聖天様様含め神仏は、確かに食べ物を与え泣くで無いと申されますが其の与え方や導き方に違いが御座います。
聖天様は、天部の仏様ですから人間に大変近い存在に御座います。
故に人間の煩悩に対する苦しみも自身の如く御理解戴いて居ります。
故に他の仏様から観ると些か眉を顰める願意でもお聞き届けに成ります。
他の仏様は、其の先に有る彼岸への導きを致されて居りますから我欲に伴う事に関しては、お聞き届けに成らず其の欲や執着より離れる様な神力を顕されます。
二つ目に関しては、どちらも聖天様で御座います。
即ち観音経でも説かれて居ますが縋る者の苦しみに応じて身を顕じ導くと申されます通り本質は、同じ仏様ですが状況に応じて身を変え救いの手を述べられますから〔応身〕双方とも聖天様で御座いますし縋る者の願意に応じて姿、象を変えて衆生の元への訪れて下さいます。
天祥 九拝
コメントありがとうございます。私の質問の仕方が悪かった様で、
「お腹をすかして泣いてる赤子には、先に食べ物を与えてから、泣くでない」と話される(先にご利益を授けてから信仰を深めよ)聖天様と、
ご利益は願い叶う位の本人の功徳、仏教に帰依する気持ちが無ければ一切の御利益を与えて下さらない!とブログに書いて有りますが、どちらの聖天様が本当の聖天様を表した文書なのでしょうか?
答拝
解答としては、どちらも本来の聖天様で御座いますが要するに本質的には、後者の内容が聖天様の大欲(衆生救済に基づいた願意成就の先に有る導き)で御座います。
では、前者の内容とは、此は、あくまで仮と申しますか一時的に泣く子をなだめる為に良い流れを作り落ち着かせる意味合いが強く願意成就には、至りませんが其れなりの流れを作り落ち着いた所で願意成就の為に如何に進むかを諭されます。
喩えるならば重傷や重病を負った場合、先ずは、症状を抑える対処が行われ後に根本的治療が行われ改善、治癒致します様に聖天様自身も其の時に応じて願意を叶えず試練や問い掛けから導く場合と先ず環境を改善してから問われる場合と幾つかの場面が有る為、人それぞれに於いて御利益の現れ方も違うので御座います。
天祥 九拝